【怪我さえなければ】財前、小野、小倉…。日本サッカー界の歴史を変えることができたガラスの天才たち。

【怪我さえなければ】財前、小野、小倉…。日本サッカー界の歴史を変えることができたガラスの天才たち。

怪我さえなければ…日本サッカー界の未完の大器たち

各分野で天才と呼ばれる人は、この世に存在する。

Wikipediaでは、天才についてこう書かれている。

「天才とは、天性の才能、生まれつき備わった優れた才能を持った人で、人の努力では至らない才能を持った人物である」と。

日本サッカー界にも天才は存在する。が、多くは怪我に泣いた。

光り輝いた舞台で活躍できるのは一握り。

今回は、怪我さえなければ、今頃、日本サッカー界の歴史を変えていたかもしれない天才たちを紹介。

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【レフティーモンスター】小倉隆史

日本サッカー界で、怪我さえなければ、と言われる第一候補は、おそらく小倉隆史だろう。

いまの若い人たちは、彼がスパサカに出ている人、という感じだろうが、小倉隆史はこれからの日本サッカー界の中心になるであろう人であった。あの怪我をするまでは。

FWで183cm、テクニックとスピードもあり、身体能力は抜群。そして、レフティーであることで、彼の未来は容易に想像できた。

いまよりも海外サッカーの情報が入ってこなかった時代。日本人が海外欧州リーグに移籍するなんてことは考えたこともなかったし、活躍するなんてもってのほか。

四日市中央を卒業後、1993年に名古屋グランパスに入団。そして、すぐにオランダ2部のエクセルシオールへレンタル移籍。

シーズン途中の加入ながら、リーグ得点王争いに加わる活躍を見せ、オランダ1部のフェイエノールトを含めた多くのクラブからオファーを受けた。また、この翌年にチャンピオンズリーグを制覇するアヤックスからも接触があったと言われている。この時のアヤックスは強かった。

しかし、メキシコ五輪以来となる28年ぶりの五輪出場を目指す日本サッカー界のために、帰国。

U-22代表のみならずA代表にも召集され、その年のキリンカップでA代表デビューを果たす。

フランス戦では途中出場ながら三浦知良(キングカズ)と2トップを組み、エリック・カントナ、ディディエ・デシャン、マルセル・デサイーなどの豪華メンバー相手にゴールを奪った。なお、これが日本代表での最初で最後のゴールである。

アトランタ五輪アジア最終予選直前の代表合宿での紅白戦。練習終了を告げるホイッスルを西野朗監督(当時)が口にしようとした瞬間、小倉は右足後十字靭帯を断裂した。

その後、幾度となく手術を繰り返すも、かつての輝きを取り戻すことはなく、32歳で現役引退。

小倉隆史が怪我をしていなければ…

  • マイアミの奇跡は存在しなかったかもしれない。アトランタ五輪といえば、グループリーグD組第1戦での最強ブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」が有名だが、小倉隆史が怪我で離脱したおかげで、それまでの攻撃的な戦術スタイルから、日本は守備的な戦術スタイルに変更し、ブラジルに勝利。だが、当時、小倉隆史を尊敬していた若き中田英寿は、そんな守備的な戦術スタイルの採用を拒否。彼は出場時間を失うことになる。
  • 中田英寿なんかよりも先に海外のクラブで活躍していた可能性が高い。

【柏レイソルユース黄金世代】比嘉

柏レイソル、特に毎年のようにユース世代を追っているような熱烈なファンの方なら、彼の名をご存知だろうが、そうでなければ、あまり聞いたことがないかもしれない。

彼もまた、怪我によって、サッカー人生を棒に振った1人だが、彼ほど、「怪我さえしなければ…」と思ったほど。

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柏レイソルユースの黄金世代の中でも、群を抜いて上手かった。比嘉厚平だ。

彼と同じレイソルユースの同期には、工藤壮人、山崎正登、武富孝介、仙石廉、酒井宏樹、島川俊郎、畑田真輝、指宿洋史。

比嘉を含むプロ9人を輩出した柏レイソルユースの黄金世代とは彼らのことだ。

比嘉は、各年代の年代別代表には必ず選ばれており、彼の名は他クラブの下部組織クラブである同級生たちも当然のように知っていたという。

比嘉厚平が怪我をしていなければ…。

  • 柏レイソルで下部組織時代からの同期である酒井宏樹のポジションはFWで、もしかしたら日本代表にすら選ばれていないかもしれない。酒井は「中学の時、FWだった自分のポジションが変わっていったのは、同じFWに比嘉がいたから」と。
  • 斉藤学などのロンドン五輪世代を引っ張って、比嘉がA代表の中心になっていたかもしれない。(ロンドン五輪世代の、その後のA代表での活躍はなんとも微妙なもの)

【中田英寿を超える天才】財前

中田英寿を超える天才と言われた男がいる。今でこそスペインで活躍する日本人プレーヤーは多いが、当然、先の時代の開拓者がいる。財前宣之は日本が世界に誇る、まさに”天才”であった。

中学時代から読売ユースに所属し、入団テストでは「ボールを持った瞬間に合格」であった。サッカー経験者なら分かるであろう「コイツ、できる…!」って感じ。

U-17代表では中田英寿はこう言っていたという。

「ザイ(財前)が見本だった」

「僕が走って、ザイ(財前)が裏へ出してくるっていう、本当にコンビのような選手でしたね。財前のような選手がずっといたら、僕はずっと点取り屋のようにいただろうし、パスを出すというよりも、貰う選手で居続けたと思う」と。

松田直樹は「ザイ(財前)に認められるか否かで、代表における立場が決まった」と。

1993年、日本で開催されたU-17世界選手権では、グループリーグ3試合(ガーナ・イタリア・メキシコ)全てでマン・オブ・ザ・マッチを受賞。様々な球種を蹴り分ける彼のセンスは称賛され、日本のベスト8進出に貢献。大会ベストイレブンにも選ばれ、フランチェスコ・トッティを凌ぐ評価であった。

高卒と同時に、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と契約したまま、イタリア・セリエAのラツィオへ短期留学。当時、イタリア代表に選ばれていたアレッサンドロ・ネスタに、ほとんどボールを奪わせなかったという逸話も。

その後、スペイン1部のCDログロニュスに期限付き移籍するも、靭帯断裂。

その後、合わせて計3度も靭帯断裂という大怪我を負い、彼が再び輝くことはなかった。

財前之が怪我をしていなければ…。

  • スペイン1部リーグで初の日本人選手になっていた可能性が高い。(その後、00年に城彰二がレアル・バリャドリードに移籍)
  • 中田英寿がMFをやることはなかったであろうし、そもそも高校卒業後にベルマーレには行かずに大学進学を選択し、大学卒業後はサッカーそのものを辞めて就職していたかもしれない。

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【日本人離れした身体能力】久保竜彦

「日本人離れした身体能力」なんてのは聞き飽きたキャッチフレーズで、まぁトップアスリートはみんなそんなものだろう、なんて思っているあなたは、久保竜彦という男を知らない。

彼ほど日本人っぽくない、まさに海外選手のような身体の使い方、ボールタッチ、風貌に似つかわしくない独特な発想力。まさに日本人離れしていた。

しかし、その驚異的な身体能力を支えるだけの身体は悲鳴を上げ(そもそも、日本人と外国人では骨格も違えば、筋肉のつき方などもかなり違う)、徐々に足首痛や腰痛に悩まされることになり、リハビリの時間が多くなっていった。

サッカー好きに「過去最高の日本人ストライカーは?」と問うと、久保竜彦の名を挙げる人はかなりいると思う。

久保の代わりに2006ドイツW杯出場に大きく貢献した大黒将志は「FWは日本人同士ではそんなに差がない。ただ、久保さんは突出していて、あとはそんなに変わらないと思う」と。

久保竜彦が怪我をしていなければ…。

  • 02日韓W杯と06ドイツW杯に代表として選ばれ、ゴールをあげていた可能性も。
  • 02日韓W杯に関しては、トルコを破り、セネガルにも勝っていたら、歴史的な「3位決定戦(日本vs韓国)」になっていた可能性もある。
  • 年間を通してフルでほぼ全試合に出場していたであろうし、年間得点数20得点はすんなり越えていたであろう。(久保竜彦ともあろう男が、現役で1度も年間20得点を上回ったことがない)
  • 02年得点ランク1位は高原直泰(26得点/27試合)。03年得点ランク1位はウェズレイ(22得点/27試合)。04年得点ランク1位はエメルソン(27得点/26試合)。なお、03年と04年の年間総合優勝は久保竜彦が所属する横浜F・マリノス。

【日本サッカー界の最高傑作】小野伸二

筆者の勝手な見解だが、日本サッカー界の最高傑作は、過去を振り返っても、小野伸二以外の名を挙げることは不可能である。

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名選手による、小野伸二に対する天才コメントを紹介しよう。

06年の1月に浦和に復帰するまで、フェイエノールトの絶対的な主力として君臨していた小野伸二。当時のフェイエノールトの指揮官であるベルト・ファン・マルバイクは

「信じられないほどに素晴らしかった。オノは誰もが思っていたよりも遥かに優れた選手だった」

そして、その後、彼はオランダ代表を指揮し、ウェズレイ・スナイデルやロビン・ファン・ペルシー、アリエン・ロッベンなどといった世界的な選手と比べて、

私はこれまで何度も言ってきたが、シンジ・オノは今まで見てきた選手の中で最高の選手だ」と。

ただ、名指揮官が見たシンジ・オノは、99年のシドニー五輪アジア予選での悪質なタックルを受けて左膝靭帯断裂の重傷から復帰した後のプレースタイル。

それは、かつての感覚や輝きを取り戻せず、苦悩しながらの出来上がったプレースタイルであって、あの大怪我さえなければ、ひょっとしたら…と誰もが思ってしまう。

小野伸二が怪我をしていなければ…。

  • シドニー五輪には主力として間違いなく出場していた。準々決勝のアメリカ戦(2-2でPK戦4-5で負け)は勝っていた可能性が高い。
  • フェイエノールトではなく、より大きなクラブに移籍をしていたかもしれない。
  • 小野伸二が怪我をした年に浦和レッズがJ2に降格することはなかっただろう。

【ガラスの身体を持つ未完の大器】宮市亮

宇佐美貴史や柴崎岳、遠藤航などと同じプラチナ世代と呼ばれている宮市亮。

近年、彼ほど、日本のサッカーファンの期待を背負った選手はいなかった。そして、アーセナルへの移籍がそれに拍車をかけた。

もちろん、アーセナルで在籍し続け、試合に出場し続けるのは相当な高い壁。レンタル移籍で経験の場を踏み、そしてアーセナルに帰還…というのが、大半の人が思っていた彼の未来予想図。

しかし、アーセナルをも唸らせた、その驚異的なスピードは、彼の身体に大きな負担をかけ、怪我をして、復帰したと思ったら、またすぐに怪我、というのを繰り返し。

いまだ本調子ではなく、また、所属クラブのレベルも下降気味。またいつ怪我をするか心配するほど。

宮市亮を見ていると、上手い選手が良い選手ではなく、怪我をしない選手が良い選手、だということを再認識させられる。

宮市亮が怪我をしていなければ…。

  • プラチナ世代を引っ張る代表的な選手になっていただろう。
  • 日本代表には珍しいウィンガータイプで、彼のためのフォーメーション・戦略が用意されていたはずである。
  • アーセナルからのレンタル移籍(武者修行)を経て、アーセナルで活躍、もしくは、欧州のビッグクラブで活躍していた可能性も。

【抜群のボール奪取能力】米本拓司

EURO2008のスペインは最強だった。当時、4-1-4-1を採用した故ルイス・アラゴネスはさすがだが、当初はシャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガス、ダビド・シルバを同時に起用しなかった(システム的に機能しないと判断したため)。

クアトロ・フゴーネス(4人の創造主)と呼ばれた彼らはダビド・ビジャの怪我によって、EURO2008決勝で光り輝き、その後、世界ランキング1位の椅子に長期間、座り続けていたことは周知の通り。

話が脱線してしまったが、そのクアトロ・フゴーネスは、DFラインと中盤の4人のスペースに入り、的確なパス供給と中盤を走り回り続け、地味な働きをするマルコス・セナがいなければ、十分に機能はしなかっただろう。(比較的、筆者は地味なタイプのプレーヤーを個人的に好む)

さて、そのマルコス・セナを彷彿とさせるプレースタイルは、日本であまり見たことがなかった筆者。あれを出来るのは日本人ではいない、と。そう思っていたのだが、米本拓司を一目見て、その考えが覆った。

伊丹高校時代からU-17W杯の代表メンバーに選ばれるなど(当時のU-17代表監督は、後にFC東京で監督となる城福浩)、プロで活躍するに十分な素質を持った選手。

プロ入り後はルーキーながら中盤のレギュラーの座を獲得。順風満帆かと思われた2010年の2年目のシーズン開幕前に、左膝前十字靭帯損傷および左膝外側半月板損傷により、およそ8ヵ月の長期離脱。

2011年4月24日の千葉戦にて、再び左膝前十字靭帯を負傷し、手術を行った。

2012年3月17日の名古屋戦にて途中出場を果たす。約11ヵ月という長期離脱からの復活であった。

しかし、彼に不幸は再び訪れる。

2016年7月の川崎戦で負傷退場。今度は右膝前十字靭帯断裂および内側側副靭帯損傷という大怪我を負い、スペインはバルセロナの病院で再建手術を行い、2017年5月にトップチームに復帰を果たした。約10ヵ月という長期間離脱であった。

米本拓司が怪我をしていなければ…。

  • 和製マルコス・セナとして、海外で活躍をしていた可能性が。
  • 日本A代表で、中盤の底でボールを刈り取る守備的MFの選出に毎回困ることがなくなる。
  • 日本代表がロシアW杯でベルギー代表に勝って、史上初のベスト8進出となっていた可能性が。
  • FC東京がJ2に降格することはなかった。

めちゃくちゃ間の悪い日本人No.1FW】高原直泰

さて、日本人離れしたFWとして、前項で久保竜彦を紹介したが、高原直泰はそれを超越する。

少年時代から小野伸二と共に静岡、そして全国に名を知らしめた高原。特に、小野は、「彼ほどのゴールゲッターは日本で存在しない」と言わせるほど。

しかし、高原は稀に見る、サッカー界、いや、スポーツ界でも、非常に間の悪い男なのだ。

まずは、2002年日韓W杯。

当時、代表メンバー確実と思われていた高原だが、直前でエコノミー症候群を発症してしまい、代表メンバーから落選する。

だが、気落ちせず、ジュビロ磐田に所属していた彼は、その年のJリーグでMVPと得点王を獲得。その後、ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVに渡り、活躍。

脂の乗った時期を、このように振り返ってみると、2002年日韓W杯への出場がエコノミー症候群によって阻まれてしまったことは、非常に残念。

高原直泰が怪我をしていなければ…。

  • 2002年日韓W杯には主力FWとして出場していたであろう。また、ラウンド16で対戦したトルコに勝って、準々決勝に進めていた可能性大。
  • 日韓W杯メンバーから落選した年のJリーグでMVPと得点王の獲得は無かった。(W杯期間中に肉体改造等をしていた)
  • ドイツ強豪クラブを渡り歩いて可能性も。(2006年ドイツW杯時、現地では中田英寿よりも注目度が高かったとか)

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